マリー・アントワネットと子供たち
映画の場面と史実や絵画にもとづいて、その背景と子ども達について調べてみた。
マリー達の肖像画を描いた女性画家ルブランの自画像は、KPMの陶板画のモチーフにもなっている。
《マリー・アントワネット》(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画 1783年)
《エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン》1790年にフィレンツェで描かれた自画像。


マリー・アントワネット (映画)
『マリー・アントワネット』(Marie-Antoinette)は、2006年のアメリカ映画。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
誰も知る人のいない異国にわずか14歳で単身やってきたマリー・アントワネット。
ルイ16世との結婚にはじまる、孤独な一人の少女の青春物語でもある。
主演のマリー・アントワネットはキルスティン・ダンストが演じている。
撮影はフランスのヴェルサイユ宮殿で、3ヶ月にわたり行われた。
第79回アカデミー賞にて衣装デザイン賞を受賞(受賞者: ミレーナ・カノネロ)。
画面の赤子は長女のマリー・テレーズ。
後ろ向きの女性画家は、おそらくエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランであろう。
ルイ16世にバスティーユ牢獄の襲撃を告げる場面である。
ヴェルサイユ宮殿に松明をかかげて押し寄せる群衆。マリーは両手を広げ深くお辞儀するようなポーズをとった。
失意のもと、ヴェルサイユ宮殿を去る馬車の中からの光景。
寝室が破壊された最後の映像。この映画には断頭台の場面はない。
マリー・アントワネット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)
史実のマリー・アントワネットにも、孤独はつきまとった。
フランス革命の正当化の中で、悪者扱いされてきた側面とは違った人物像も垣間見える。首飾り事件(1785年、革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。王妃の陰謀によるものとして噂になり、マリー・アントワネットを嫌う世論が強まった。)を扱った映画『マリー・アントワネットの首飾り』でも実際にはマリーは事件とは無関係であったことが語られている。
マリー・アントワネットの言葉として有名な、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というものも実際には彼女の言葉ではない。
ルブランの描く絵画の中からは優しい母親像も垣間見える。民衆の苦しみに対しても心を痛めていたとも言われる。
また、ルイ16世についても国民の苦しみも分からぬ、愚鈍で無能な君主というイメージづくりがされた。フランス革命のはじまりとされるバスティーユ牢獄の襲撃当日の「今日は何もなかった」という日記の一文は有名である。
実はこれは狩猟日記といって、狩猟の獲物を記録しておくためのものだ。そこには「Rien(何もなし)」という綺麗な文字が残されていた。生活や社会情勢を記録するたぐいの文書ではないから、それをもって無能な人物とは言えない。
優柔不断な側面や危機管理能力の欠如等がなかったとは言えないが、数カ国語を操り理数系にも強い知的な面もそなえた人物であったようだ。
《マリー・アントワネットと子供たち》
(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画 1787年 ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)
マリー・アントワネットの他に、左から長女のマリー・テレーズ、次男ルイ・シャルル(ルイ17世)、長男ルイ=ジョゼフが描かれている。ルイ=ジョゼフがつかまっている空のゆりかごは、絵画の制作中に天然痘で死去した次女ソフィーを暗示している。
長男ルイ=ジョゼフも、わずか7歳で1789年6月4日に死去した。
1ヶ月後の1789年7月14日にバスティーユ牢獄の襲撃が起こっている。
その後、1793年1月21日(38歳没)ルイ16世の処刑・1793年10月16日(37歳没)マリー・アントワネットの処刑が行われる。

《ルイ=シャルル》
(アレクサンドル・クシャルスキ画 1792年 ヴェルサイユ宮殿蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A417%E4%B8%96
独房に墨で書かれた「ママ、僕は…(Maman je)」という書きかけの言葉と花の絵が残されたという。
長女のマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスだけが天寿を全うした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9
2018.11.12 追記
フランス革命の年表
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
その他の資料から分かることは、
1789年7月14日のバスティーユ襲撃(フランス革命の勃発)以降、
7月25日 パリ・コミューン成立
8月4日 封建的特権の(有償)廃止を決議
8月11日 封建制廃止令
8月26日 「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択
9月11日 立憲議会、国王の停止的拒否権を議決
9月12日 マラー、『人民の友』紙を創刊(しばしば発禁と再刊を繰り返す)
10月1日 近衛兵の宴会でマリー・アントワネットが三色帽章を冒涜
10月5日~6日 ヴェルサイユ行進(十月行進)
までの経緯である。
ヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles)とは、女たちを中心としたパリ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス国王ルイ16世をパリに連行した事件である。
https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-038.html
映画で民衆に向かってマリー・アントワネットが深くお辞儀をするシーンは、この時のことを表しているのだろう。マリー・アントワネットは深々と優雅なお辞儀をしたとも、ただ立ちすくんでいたとも伝えられる。
あけがたの6時、市民の一群は防備のすきをみて城内に侵入、近衛兵が発砲して市民5人が殺され、群衆は数人の兵士を殺害した。市民は宮殿内に押し入り、王妃マリ=アントワネットはねまきのまま部屋にかけこんだ。ついに王は王妃、皇太子と共にバルコニーにあらわれ、ラファイエットがそばにつきそった。群衆は「王よ、パリへと帰れ」と叫んだ。国王はこの要求に屈し、議会もまた王と共にパリに移ることを決めた。午後一時、100名の議員が王を取り巻き、すべての軍隊、すべての民衆がパリに向かって行進を始めた。女たちは叫んだ。「わたしたちは、パン屋とパン屋の女房と小僧をつれてきたよ!」<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.90>
ここで言われるパン屋と女房とはルイ16世とマリー・アントワネットを意味していると考えていたが、単純に「パン屋を探しに行こう」「パンをよこせ」というのがスローガンであった。文字通りパンを求めた民衆(実際に逃げ遅れたパン屋が犠牲にもなっている。)と扇動の中心にいた反王党派や革命分子達とでは、根本的な目的の違いがあった。行動を共にはしたが、それぞれの事情と思惑があったのである。国民衛兵(市民兵)の多くは女達に同調し、率いるラファイエットでさえ為すすべがなかった。(本心はどちらの見方であっかは疑わしい。)いずれにしても市井の女達・民衆達の不満や怒りが原動力となった事件であることには違いない。
そしてマリー・アントワネット達は、ヴェルサイユ宮殿に二度と戻ってくることはなかった。
ベルサイユ宮殿 王妃の寝室
Journée des 5 et 6 octobre 1789, marche des femmes sur Versailles
フランス語だが、ヴェルサイユ行進の雰囲気が分かる。
21 06 octobre 1789 La reine au balcon
王と王妃がバルコニーに出るまでの少し長いバージョン。
現在のパリとヴェルサイユ宮殿の位置関係
画像はクリック(タップ)すとる拡大表示されます。(画像ページが表示されるときはもう一度クリック)
事件以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に監視される日々を送ることとなる。国王と共に議会の機能もパリに移動した。
「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を国王が承認したことから、政局の混乱は一応沈静化した。しかし国王一家はウィーンへの逃亡(厳密には国外をめざしたわけではない)を図り、それが未遂に終わり(ヴァレンヌ事件 La fuite à Varennes 1791年6月20日から翌朝にかけてフランス国王ルイ16世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された事件)、民衆は王家に対する不信を決定的なものにした。やがて国王夫妻を裁判にかけ、裁判で有罪とされた国王夫妻は処刑されるに至る。
ちなみに、処刑器具である「ギロチン」の名は、1789年10月10日にギヨタン博士が、立憲議会でこの処刑器具の使用を提言したことに由来する。ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」が語源。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%B3
ルイ16世がギロチンの刃の角度を斜めにした方がよい(確実)と助言したとも伝えられるが、ことの真偽は定かではない。はからずも自らがこのギロチンで処刑されることになるのである。
ギロチンによる処刑は今でこそ残酷に思われるが、それまでの残忍な処刑や斧や刀による不確実な断頭に対して、死刑囚の苦しみを出来るだけ軽くするため、人道的立場で生み出された処刑器具である。(一説には数分間意識のある絞首刑よりも苦しみが少ないという。)
アラン・ドロンによる映画『暗黒街のふたり』(1973年)の処刑シーンが思い出される。(見るもの誰もが恐怖におののいたことだろう。フランスでは1981年に死刑制度が廃止されている。)ギロチンの構造はルイ16世の時代と基本的に変わっていない。
2018.11.14 追記
マリー・アントワネットの死
16 octobre 1793 Mort de la Reine
【グロ注意】映画 フランス革命 グロシーン集 虐殺 処刑など【youtube字幕表示推奨】
同じく『フランス革命』 La Révolution française 1989年(フランス革命200年記念)の映画より
ありがたいことに日本語字幕をつけてくれた人がいた。(設定から日本語字幕を表示してご覧下さい。字幕が表示出来ないときは、YuoTubeを開いて設定を変更して下さい。)
バスティーユ襲撃にはじまり、様々な事件による殺戮シーン。
処刑台に立ったルイ16世の最期の言葉が切なく空しい。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ。」「私は、私の死をつくりだした者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることがないように神に祈りたい。」(実際には喧騒と処刑隊の太鼓の音にかき消され、その言葉を聞いた者は誰もいなかったという。傍らの人に伝えられた言葉が、現在に残されたのだという。一度出典をみつけたのだが、分からなくなってしまった。実際に処刑台の傍らにいたのは死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンである。ルイ16世の遺書の中にも同様の言葉があったという。最後に家族との面会が許されたとき、息子のルイ・シャルルに「フランス国民に復讐など考えてはいけない」と宣誓をさせたともいう。そうした、処刑台に立つ前に残された言葉、あるいは国王の心中を思う人物によって伝えられた言葉なのかもしれない。)
マリー・アントワネットの最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès 」だとされている。 処刑の前日、マリー・アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。
革命の中、虐殺が繰り返され、恐怖政治によりおびただしい人々が処刑される。(残酷で見るに忍びないが、これは歴史の事実である。この映画は比較的史実に忠実な内容といわれている。)
ラストは恐怖政治を行ったロベスピエール自身の処刑である。彼(とジャコバン派)の処刑によって実質的にフランス革命は終焉を迎える。
全編見たい方 設定で字幕 フランス語(自動生成)を選択して、さらに自動翻訳でフランス語(自動生成)>>日本語を選択することが出来る。(自動翻訳の質は保証できかねます。環境によっては自動翻訳は設定できないことがあります。パソコン等でご覧下さい。)
La Révolution française (1989): Part 1 (w/ English Subtitles)
https://www.youtube.com/watch?v=JBR6bUCaG2k
The French Revolution Part 2 English subtitles French autogenerated captions
Part 2 英語字幕版
https://youtu.be/YgtK2BnMmUM
一部動画を更新しました。
YouTube映像は削除されることがあります。視聴できないときはYouTubeで検索してみてください。(2021.1.26)
2018.11.17 追記
映画『フランス革命』 La Révolution française(1989年)The French Revolution(英語字幕)全編を見た。前・後編あせて5時間20分に渡る大作である。序盤からルイ16世やマリー・アントワネットはもちろん、フランス革命のキーマン達(ジョルジュ・ダントンやカミーユ・デムーランなど)が登場する。
フランス語や英語が出来る人は内容も良く理解できるだろう。自動翻訳の日本語は、フランス革命の概要が分かっていないと理解出来ないところがあるかもしれない。例えば何度か登場する「Terror(英語) 恐怖」という単語は、 恐怖政治(フランス語: terreur テルール) を意味する。自動翻訳は英語字幕の機械的な直訳であるから文法や訳のおかしさは否めない。できれば正しい日本語でも見てみたいと思う。 年表 関連人物 などでフランス革命を予習しておくと分かりやすい。
フランス革命200年記念の映画だが、日本では公開されなかったのだろうか。日本語訳・字幕版はみつけられなかった。前述の映画『マリー・アントワネット』Marie-Antoinette(2006年)に比して、史実と時代考証にもとづく伝記的映画である。(ルイ16世がギロチンの改良を提言する場面など、事実かどうか定かではいが現在までに伝わるエピソードなども多く含まれている。)
長編映画だが、歴史的な事件やエピソードがテンポ良く繰り出されるので、あの場面かと納得しながら見ることが出来て楽しい。バスティーユ襲撃のあとなど、民衆が生首をかかげてお祭り騒ぎする場面が出てくる。現代の感覚からすると少しあり得ないような場面設定だ。当時の民衆の感覚からすれば決して不思議なことではなく、歓声に沸いたのだろうと考えると、少し複雑な思いだ。
当時の民衆にそれほど高い教養は求められないし、人権意識も希薄であったに違いない。ただ生活の改善やパンを求めて革命を応援したのだと思う。1792年9月2日の 九月虐殺 (反革命派狩り。殺害された人数は1万4千人とも、1万6千人ともいわれる。 )などの描写では、民衆側の残虐さや理性の欠如を強く感じる。むしろ革命を主導した議員や元貴族達の方にこそ人権意識がめばえており、ダントンやカミーユの考えには共感できる部分がある。革命主導者達の内紛や党派抗争、恐怖政治を遂行しながら革命の理想と現実のギャップに苦悩するロベスピエールの姿などが印象的だった。
映画やドラマといった映像作品には、文章や絵画などの資料では感じ取れない現実感や緊迫感がある。ギロチンの処刑においても、あたかも大根の首を刎ねるがごとく次々と人の首を刎ねていく。人間の死というものが、完全に見世物感覚となっていく恐ろしさがそこにある。非現実が日常に同化して、何も感じなくなることへの恐怖。ただ真っ赤に染まった処刑台の血を洗い流す映像により、我々の理性を目覚めさせるのだ。これは映像ならではの表現手法といえるだろう。
フランス革命というものが、この国の人たちにとって、きれい事ではない多くの人々の血に染まった歴史の上にあること、その結果における自由だいうことを忘れないための記録なのだ。 フランス国歌・マルセイエーズ の歌詞にあるように、あえてこうした悲惨な描写を隠さなかったのだと思う。そして彼らはこの国の歴史と革命の意味を問い続ける中で、真の平等と平和そして自由を希求するのである。
我々日本人は、往々にして「臭いものには蓋をする」「残酷な描写は見(せ)ない方がいい」という感覚に陥るものだ。しかし、本当の美しさや正しさを求めるのならば、醜いものや不正や悲惨な現実から逃避してはいけない。その醜さや非道さ残酷さなどに目をつぶらず、実態をしっかりみつめたうえで、人間としての理想を追求すべきだと私は思う。
ちなみに日本の死刑制度では、現在も絞首刑で死刑が執行されている。
刑場(東京拘置所の絞首刑場)
https://p-prince.at.webry.info/201008/article_2.html
当ブログの記事は随時、追記・更新することがあります。よかったら時々覗いてみて下さい。
45年ぶり、生徒指導書を作成 (生徒指導提要 不正・守秘義務・告発) 追記
https://p-prince.at.webry.info/201004/article_1.html
「自閉症の君が教えてくれたこと」
https://p-prince.at.webry.info/201811/article_4.html
国際ロマンス詐欺 と SNS
https://p-prince.at.webry.info/201811/article_2.html
駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙 展 横浜美術館
https://p-prince.at.webry.info/201811/article_1.html
棒人間 RADWIMPS と 人間開花 HINOMARU
https://p-prince.at.webry.info/201810/article_2.html
NEVER LET ME GO -私を離さないで- とテレビドラマ 追記
https://p-prince.at.webry.info/201810/article_1.html
菅直人氏「原発問題」講演 第28回安田塾 追記
https://p-prince.at.webry.info/201610/article_1.html
決め方TV(テレビ朝日)「クラス替え」
http://p-prince.at.webry.info/201503/article_1.html
ジョブチューン学校の先生SP!(TBSテレビ)
http://p-prince.at.webry.info/201601/article_1.html
NHK(Eテレ)「いじめをノックアウト」
http://p-prince.at.webry.info/201609/article_1.html
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